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ビキニ水爆実験から原水爆禁止運動へ 原爆投下の9年後の1954年、太平洋上のビキニ環礁で、アメリカが実施した水爆実験により、放射性降下物の「死の灰」が、約160キロ離れた海域で操業していた マグロ漁船第五福竜丸にも降り注ぎました。乗組員の放射線被害が詳しく報道されるなか、無線長の久保山愛吉さんが9月に亡くなりました。この事件により原水爆、 放射能に対する国民の関心は急激に高まり、各地で起こった原水爆禁止を求める署名活動は、瞬く間に全国に広がり、3000万以上の署名が集まりました。 1954年4月、東京・上野で、原水爆禁止を求める署名活動。 日本原水協提供 放射線障害と診断された福竜丸の乗組員たち。1954年4月1日。毎日新聞社提供 廃船になった福竜丸。1970年、東京、夢の島。撮影:森下一徹 1954年3月1日、ビキニ水爆実験「ブラボー」のきのこ雲。爆風から約80kmのところから撮られたもの。撮影:アメリカ空軍

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