NO MORE HIROSHIMA & NAGASAKI MUSEUM

核兵器をなくそう 「核兵器が人類にもたらしている脅威に対し、私たちは核兵器の 完全廃絶に向けて新たに断固とした行動をとらなければならない。 私たちには、核戦争を生き延びた被爆者と地球に対して、 この行動をとる義務がある。」 —— 国連事務総長 アントニオ・グテーレス 広島と長崎への原爆投下は、数万人の死者と想像を絶する人的被害をもたらしました。 広島と長崎の惨状は、人類の生存のために核兵器を二度と使ってはならないことを明らかに しました。しかし、世界には現在もこの世界を何度破壊しても余りある約1万4,000発の 核兵器があります。 世界は、1945年8月の原爆投下を生き延びた被爆者が勇気と道義的リーダーシップをもって、 核の脅威に対する普遍的な闘いをつづけてきたことに感謝しています。国連は、被爆者の 証言が次世代に確実に受け継がれるように尽力しています。被爆者は、核兵器が現存する 脅威であり、その使用に対する唯一の保証は核兵器の完全廃絶であることを思い起こさせる 存在です。核兵器廃絶の目標は、1946年に開かれた国連総会で採択された第1号決議以来、 国連の軍縮に関する最優先事項であり続けています。 第10回核兵器不拡散条約再検討会議が開かれるのを前にして、世界の指導者たちに対し、 立場の違いを脇に置き、核兵器廃絶という共通の目標の達成に向けて大胆な措置を講ずる ことで被爆者の勇気に応えるよう強く求めます。

ヒロシマ・ナガサキから75年を超えて ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ ヒバクシャ―核兵器廃絶に 取り組む勇気ある人々 広島の原子雲 撮影:米軍 広島平和記念資料館提供 峠三吉「原爆詩集」序より

焼き場に立つ少年 この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場に やってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い 子どもにまで及んでいることを知った。アメリカの少 年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の 姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに 行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできな かった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを 必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私は なすすべもなく、立ちつくしていた。 —ジョゼフ・オダネル 「( Japan 1945」より) オダネル氏は、米海兵隊所属のカメラマンで、1945年9月にこの写真を撮影 しました。写真に写っている少年を探しに1980年代に日本を訪れましたが、 探し出すことはできませんでした。

広島 原爆投下前 原爆投下後 1938年広島県産業奨励館と中島町 撮影:松本若次 大内斉氏提供 1945年10月5月日 原爆ドームと焼け野原 撮影:林重男 広島平和記念資料館提供 1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾が 広島に投下されました。炸裂した原爆は 放射線(中性子線とガンマー線)と衝撃波と 熱線を放出しました。爆心地から2Km以内の すべてのものを殺傷し、破壊し尽くしました。 その日のうちに4万5千人が殺され、その後 毎日、放射線と怪我がもとでの死がつづき ました。1945年12月末までに14万人以上の 人が亡くなり、さらに数万人の人が後遺症に 苦しみました。

長崎 原爆投下前 原爆投下後 被爆前の浦上天主堂と山里町界隈 米軍返還資料 長崎原爆資料館提供 天主堂の廃墟と焦土 米軍返還資料 長崎原爆資料館提供 広島への投下から3日後、1945年8月9日 午前11時2分、2発目の原子爆弾が、長崎に 投下されました。この爆弾はプルトニウム爆弾 で広島に投下されたウラニウム爆弾より 強力な爆弾でした。しかし、爆発地点は長崎市 の中心地から3㎞それたため、死者の数は 広島より少ない数でした。広島と同様、死傷者 の正確な数は誰にも分かりません。その年の 暮れまでに少なくとも7万人もの人々の尊い 生命が奪われました。

御幸橋 御幸橋に引き返した。 カメラのシャッターが切れない。 「助けて」「水をください」と 哀願するかすかな声。 動く気力もない母親の胸に すがる幼児。 小さい子どもを抱きかかえ 「目を開けて、目を開けて」 と子どもの名前を呼び続ける 半狂乱の母親。 まさに地獄だ。 頬に涙が流れファインダーを 透す情景がうるんでいた。 ̶ 松重美人 (「涙で曇るファインダー」より) 爆心地から2.2㎞の御幸橋西詰(8月6日) 撮影:松重美人 中国新聞提供

あの日の長崎 爆心地から南南東1.2㎞。現地本部からおにぎりの配給を受けて帰る母と子。 すぐ口にする元気もない。1945年8月10日朝、長崎市井樋の口付近。 撮影:山端庸介 山端祥吾氏提供 泣く元気もない乳飲み子、医師を探す父親。爆心地から1.5㎞、1945年8月10日朝、長崎市井樋の口付近。 撮影:山端庸介 山端祥吾氏提供 浦上駅プラットホームで死んでいた母子。爆心地から南1㎞、1945年8月10日昼頃、長崎市岩川町。 撮影:山端庸介 山端祥吾氏提供 原爆の惨(さん)は、全面火傷、腐敗した傷の人びと、それらの群れである。それらの群れが地に充ち、川を埋めた。頭髪をばらばらにふりみだし、 火傷して裸で、黒く、あるいは白く膨れたのが、路上にも、岡の斜面にもむらがりながら、のろのろと動いていた。 —秋月辰一郎(医師・長崎被爆者)

原爆の脅威 A 1976 analysis revealed the estimated height to be 503±10m (Kerr & Solomon). Kerr GD, Solomon DL: The epicenter of the Nagasaki weapon—A reanalysis of available data with recommended values. ORNL-TM-5139 (1976). Hypocenter 1.0 0 503 Altitude (m) 2.0 3.0 4.0 Distance (km) γ rays 319.5 78.5 7.83 0.89 0.13 0.02 21.1 3.31 0.14 0.006 0 Radiation dose Neutron rays Hypocenter 1.0 0 503 Altitude (m) 2.0 3.0 4.0 Distance (km) 229.4 42.2 11.0 4.4 2.2 Heat level (cal/cm2) Physical phenomena Hypocenter 1.0 0 503 Altitude (m) 2.0 3.0 4.0 Distance (km) Burning of white paper Burning of black paper Melting of tiles 440 160 60 30 Blast Wind (m/sec) Physical phenomena Complete destruction of wooden houses Partial destruction of walls, ceilings, etc (wooden houses) Serious damage to ferroconcrete buildings 放射線による脱毛 (日本映画社フィルム「広島・長崎における原子爆弾の影響」より) 火傷の被害者。この写真は皮膚移植後に撮影された。 (日本映画社フィルム「広島・長崎における原子爆弾の影響」より) 爆風で倒れた家。爆心地から3㎞、広島市段原町。 (日本映画社フィルム「広島・長崎における原子爆弾の影響」より) 原子爆弾は爆発の瞬間、放射線(15%)と熱線(35%)と爆風(50%)を放出した。 放射線は中性子とガンマー線からなり爆心地から500メートル地点ではそれぞれ604ラド、3,500ラドで致死率100%であった。 低線量の放射線は後遺症を引き起こす原因になった。 熱線は3.5キロメートルの位置で1.8カロリー/平方センチメートル。野外にいた人の露出部は1~4度のやけどを負った。 爆風は3.2キロメートルの地点で28メートル/秒で、爆心地には280メートル/秒。1.5キロ以内の木造家屋はすべて倒壊した。 熱線 爆風 放射線

原爆による熱線は、人びとを焼き殺し、火傷を負わせました。燃え広がった火は、街を総なめにしました。爆風で、地面や壁にたたきつけられて多くの人が無残な死をとげました。 爆風は60kmにまで達し、家屋の損壊は5kmまでおよびました。爆心地から1.5km内の木造家屋は一瞬で倒壊し、家の中にいた人びとは押しつぶされ、火災で生きたまま 焼き殺されました。 原爆の放射線は、近距離で被爆した人びとに急性原爆症を引き起こしました。放射能の影響は、家族さがしや救援のために広島、長崎市内に入った人びと、被爆した人の 看護にあたった人たちにも及びました。 死の同心円 広島の死者のデータ 長崎の死者のデータ 原爆投下時の広島市の人口:31 ~ 32万人 1945年12月31日までの死者:約14万人±1万人 原爆投下時の長崎市の人口:27 ~ 28万人 1945年12月31日までの死者:約7万人±1万人 死者のデータは庄野直美・飯島宗一『核放射線と原爆症』=日本放送出版協会から。広島上空(左)、長崎上空(右)のサテライトイメージは)のサテライトイメージはグーグルマップから。

もしニューヨークに落ちたら ニューヨークに1メガトン級の核爆弾が落とされたとしたら? 爆心地から半径2.5km(1.5マイル)の地域内の建物は 堅固につくられたものも含め完全に破壊され、そこに住む 市民は100%近くが死亡すると考えられます。そして半径 15~20km(9~12マイル)の地域内の建物も損壊を被り、 住民の大半が負傷し、ニューヨーク市民のほとんどが 本人を含めその子孫まで放射線後遺障害に苦しめられる 日々が長く続くことになります。 バックグラウンド地図はグーグルマップから 背景写真:ニューヨーク市 撮影:サム・ヴァラディ

混乱の中の手当て 治療にあたる医師も負傷している。広島赤十字病院、1945年8月10日。 撮影:宮武甫 朝日新聞提供 収容しきれない患者は屋外の日陰に寝かされて治療を待った。広島赤十字病院、 1945年8月10日。撮影:宮武甫 朝日新聞提供 大村海軍病院に運ばれた少女。全身ぼろぼろに 皮膚が垂れ下がっている。8月11、12日頃、 長崎。撮影:塩月正雄 長崎原爆資料館提供 —「原爆と人間展」 (1997)より

亡くなった人たち 広島の爆心地から東800m、市の目抜き通りにあった福屋百貨店の横は、急ごしらえの焼却場に変わり、つぎつぎと 兵士や市民の死体が担架で運ばれ、焼かれていった。8月12日 撮影:宮武甫 朝日新聞社提供 被爆から7年たった1952年7月、 原爆犠牲者の遺骨が次々に 発見された。写真は坂町の遺骨。 野ざらしのもの60体、埋葬され ていたもの156体。被爆当時、 軍の臨時救護所があり、収容 された被爆者が、次々に命を 失った。中国新聞提供 14歳の長男を5日間探したが、見つからず、港で死体を船に積んでいると聞き、そこで見つけた。 中学校までやっと運んで、そこで荼毘に付す。5日間、冷たいコンクリートの上に寝かされ、水一滴やる人もなく 死んでいったと思えば、胸ははりさけそうにくやしい。自分の産んだ子を、母のその手で荼毘に付すとは なんとむごいことか。— 広島被爆者

母の声を背に 写真 上:長崎 8月10日昼頃 撮影:山端庸介 山端祥吾氏提供 下:広島爆心地から1.36㎞ 撮影:宮武甫 朝日新聞社提供 一瞬にして倒壊した家屋。くずれた屋根瓦、屋根板、 土壁。建物の下のわずかな空間に上向きに倒れている 母を見つけた。顔中血だらけで横を向くこともできず 『肩のあたりをおさえつける物をのけて―』という 母の声が聞こえた。だが、どうにもできない。 火が回ってきた。最後の別れの言葉をかわして私は 逃げた。般若心経を唱える母の声に後髪を ひかれながら . . . — 岩佐幹三(広島被爆者)

急性症状 広島、長崎の原爆投下から数十万の人々が生き延びたものの、放射線による 被害を受けました。被爆後の急性症状には、脱毛、下痢、出血(歯茎、鼻、目尻)、 皮下出血、嘔吐、化膿などがあります。 爆心地から1㎞で被爆した7歳の少年と、南西2㎞付近の木造家屋内で被爆した11歳の少女。頭髪の脱毛。広島、10月6日。 (日本映画社フィルム「広島・長崎における原子爆弾の影響」より) 歯ぐきからの出血(日本映画社フィルム「広島・長崎における 原子爆弾の影響」より) 紫斑(広島)。 兵士21歳。第104部隊(東北1km)の木造家屋内で被爆。 8月下旬、歯茎から出血、顔と上半身に現れ始めた紫色の皮下出血斑が 溢出斑となり、9月3日、撮影2時間後に死亡した。 (日本映画社フィルム「広島・長崎における原子爆弾の影響」より)

0 5 10 15 20 (%) Radiation dose (cGy) 100~199 200~299 300~399 400~499 500+ Frequency of abnormal cells A Stem Cell Fusion genes for leukemia Gamma and Neutron Rays Masato Tomonaga, M.D., PhD. Oslo, Norway, March 2013 (a) (b) 5’ A B C D F G X Y E A B C D F G X Y E 染色体異常、遺伝子破壊 原爆が放出した中性子線とガンマー線は細胞そのもの、造血機能を破壊し、急性症状を発症させ、多くの被爆者を死に 至らしめた。原爆放射線による後遺症の原因は、染色体を構成するDNAの放射線による破壊に起因する。放射線が通過した 細胞分子の電離によって発生した酸素がDNAの遺伝情報を破壊する。多くは修復されるが修復されない幹細胞は潜伏期を へて異常増殖を始め、がん細胞となる。 染色体を構成するDNAと放射線の破壊を示す 100cGy以上の高線量の被爆群での末梢血中造血幹細胞における放射線誘発性染色体 異常の頻度を示す。検索した幹細胞総数に対する異常核型保有細胞の頻度を被曝線量別に 示した。線量の増加に比例してその割合も上昇している。 破壊後の修復に異常をきたした染色体群。高線量被曝例で観察された末梢血中幹細胞の染色体異常核型(a)と末梢血Tリンパ球の 異常核型(b)。いずれもきわめて類似の核型異常(染色体46本、XY性染色体、C群染色体の短腕欠失および過長)を示す。このことは 放射線障害が全能性造血幹細胞レベルに及んだことを示唆する。 白血球 赤血球

10 20 30 40 50 60 0 Year Since 1945 (years) Increase in Deaths Early Onset Late Onset Solid Cancers Phase: Thyroid, Breast, Lung, Colon, Stomach, Multiple Cancers Commonalities among young survivors 2nd Leukemia Phase (MDS/AML) 1st Leukemia Phase (AML/ALL/CML*) *CML is very rare as a therapy-related leukemia 被爆後の疾病 急性症状を克服した被爆者の中から、5年ほどして白血病が急増していった。被爆後10年にそのピークを迎え、その後 減少した。かわって各種がんが発症し、それぞれ増加した。それぞれの固形がんの増加が認められる被爆後年数は次のとおり である。甲状腺がんは10年、乳がん、肺がんは20年、胃がん結腸癌、骨髄腫は30年。発症率は被爆時年齢が低いほど高い。 被爆後50年を経て高齢化した被爆者に骨髄異形成症候群が多発はじめ、年ごとに増加している。被爆時の遺伝子破壊が 緩慢に変化し発症に及んだ。白血病の第二次猖獗期(しょうけつき)といえる。 白血病や各種固形がんの死亡率と原爆投下からの年数との関係 顕微鏡写真:長崎原爆の医学的影響̶ 白血病に関して 白血病や各種固形がんの死亡率と骨髄異形成症候群の発症率を原爆投下からの年数との関係で示したグラフ。 データは朝長正男医学博士による(2013年3月ノルウェー・オスロ) 正常な骨髄、顆粒球、赤芽球。 急性リンパ性白血病(ALL):小細胞の著しい 増殖が認められる。 急性骨髄性白血病(AML):大型骨髄芽球の 著しい増殖が認められる。 慢性骨髄性白血病(CML):成熟段階にある 様々な顆粒球の著しい増殖が認められる。

原爆小頭症 1946年に生まれた畠中百合子さんは、お母さんの おなかの中で被爆し、生まれながらに障害がある 「原爆小頭症」です。母親の胎内で妊娠初期に被爆し、 大量の原爆放射線を浴びたことで、知能や身体に 障害をもって生まれました。 理容院をしていた両親に暖かく育まれ、成人して からは父親と一緒に原爆被害の実相を訴えました。 「この子の行く先を思うと…」と母親は声を詰まらせ、 親の負担能力をはるかに超えた厳しい現実が 立ちはだかります。 写真 上:両親の経営する理容室の前で(1974) 撮影:福島菊次郎 共同通信提供 下:新聞を見つめる百合子さん(1974) 撮影:福島菊次郎 共同通信提供

サダコさんは2歳の時、爆心地から1.6キロの地点で被爆しましたが奇跡的に無傷で助かりました。運動能力抜群で、 リレーの時も男の子をスイッと抜いていたずらっぼく笑うサダコさんは学校でも人気者でした。 被爆から10年経った、小学校卒業を目前にして被爆による白血病と診断され、緊急入院しました。「紙の鶴を1000羽折ると 病気が治る」という伝説を信じ、鶴を折り続けましたが、サダコさんの願いは天に届きませんでした。発病から半年後に 亡くなり、少女の人生は12年で終わってしまいました。 クラスメイトたちは、彼女の死が無駄にならないことを願って、募金運動に立ち上がりました。日本中の子どもたちの協力で、 広島平和記念公園に「原爆の子の像」がつくられました。今は国の内外から訪れる人々によって「平和を願う折り鶴」が たくさん献納されています。 佐々木禎子(広島被爆 1943–1955) 入院した病院のまえで。佐々木雅弘氏提供 広島平和記念公園に飾られている折り鶴。写真:Masao Taira/iStock 原爆の子の像。広島平和記念資料館提供

こころの傷 二人が集めた市松人形。撮影:田沼洋一 市松人形を抱くモタエさんと良雄さん。撮影:田沼洋一 あの日、火をかいくぐって家に帰った。 家は焼け、四人の子どもはいなかった。 骨がさらっとくだけた。 妻は放心状態になってしまった。 三か月後、姪が娘からもらっていた 市松人形を娘の代わりにと、 返してくれた。 妻はそれを抱いて喜んだ。 それから毎年、一体ずつ市松人形を 集めてきた。 子どもたちへの供養だった。 — 蔵満良雄・モタエ

発禁・検閲 占領下、アメリカ当局による検閲が広く行われ、原爆投下およびその後遺症に関する情報が制限された。核兵器が 初めて使われたため、長期的影響について正確に知るものはだれもいなかった。1945年当時、アメリカ当局による 安心させるような発表は、不十分な情報に基づいていたため、誤解を招くことが判明した。がんにかかる危険性の 高まりなどはおそらく理解されなかった。 情報の一部は公表されなかった。原爆に関する多くの情報は軍事機密とされ、日本の報道機関や出版物は、 検閲の対象になった。 2発の原爆による健康への影響を調査するため、トルーマン大統領によって原爆傷害調査委員会(ABCC)がつくられたが、 その報告は1947年になって初めて公表された。調査の詳細が出されたのは、それから数年後であった。 占領下の検閲を逃れるために1947年 に秘密出版された正田篠枝さんの 短歌集「さんげ」の表紙と見開き ページ。爆心地から1.7キロの広島 の自宅での体験を詠んだもの。 35歳だった。「検閲は厳しく、 違反すれば死刑になると言われ ました。死刑になってもいいと決意 して、家族に止められながらも、 やむにやまれぬ気持ちでこの本を 出版しました。(正田篠枝) 兵器について公の場での発言を制限する指針が、 海軍高官の間で配布されていた。 国立公文書館より。 日本の報道機関によるニュース 記事は、米軍の検閲官が検閲し ゴム印が押された。米陸軍発行 の「戦闘地域における野戦 報道検閲の確立と実施」より。

谷口稜曄(長崎被爆 1929–2017) 谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さんが、爆心地から2kmのところで熱線に焼かれたのは16歳の時でした。背中に 負った重度の火傷のため、1年9カ月の間うつぶせに臥せったままの闘病を余儀なくされました。あまりの苦しさに 何度も「殺してくれ!」と叫びました。ようやく立ち上がることができたときには、前身の胴体の肉は腐敗し、肋骨の 間には深い溝ができていました。 2010年5月7日、NPT再検討会議のNGOセッションで各国政府代表の前で 訴える谷口さん。日本被団協提供 核実験に抗議の座り込みをする谷口さん、1984年長崎。 撮影:黒崎晴生 2015年4月26日 ニューヨーク、NGO の集会に参加。 撮影:エリコ・プラット 私は奇跡的に生き延びることができましたが、『生きる』とは『苦しみに耐える』ことに他なりませんでした。 私たち被爆者は全身に原爆の呪うべき爪跡を抱えたまま、苦しみに耐えて生きています。核兵器は絶滅の兵器、 人間と共存できません。私は核兵器が、この世からなくなるのを見届けなければ、安心して死んでいけません。

山口仙二(長崎被爆 1930–2013) 山口仙二(やまぐち・せんじ)さんは、14歳の時、長崎の爆心地から1.2kmの地点で被爆し、熱線に上半身を激しく焼かれ、 40日間意識不明で生死の境をさまよった後、かろうじて死をまぬがれました。 山口さんは被爆の急性症状から回復したあとも肝臓疾患、皮膚がん、肺気腫、喘息など様々な病魔に悩まされ、また身体に 残るケロイド痕のため職業を転々として苦労を重ねました。 山口さんは深く傷ついた身体にむち打って、核兵器も戦争もない世界の実現を訴え続けました。1982年のSSDIIで、 日本のNGO要請団を代表して「ノーモア ヒバクシャ」を訴えました。 被爆者の訴えを渡す。1990年5月東京。撮影:森下一徹 被爆直後の仙二さん。映画「失われた世代」より。 ©平和博物館を創る会 ケロイドにかみそりをあてる。撮影:村里榮

前座良明(広島被爆 1921-2009) 24歳の時、広島で被爆。その年(1945年)の10月に長野県 松本に移住し、長野県原水爆災者の会の結成に参加、副会長、 会長を歴任しました。61年松本で始めた食堂に「ピカドン」と 命名。2009年、88歳で死去。 作の詩の一節… 座右の銘… 晩年の言葉… 病院で腸癌の術後の診察を受ける、1990年頃。前座明司氏提供 「ピカドン」食堂の前で、2009年10月。前座明司氏提供 長野市の市民に語る前座さん。2009年10月11日。前座明司氏提供 俺はたたかうぞ いつまでも たたかいぬくぞ いつまでも 息子たちや孫たちに 美しい未来と しあわせな生涯が きり開かれることをねがって たたかいがにんげんをつくる 平和は祈るだけでは実現しない 私はこわいものはない。もう棺桶の中に入って立っているが、 しゃがめない。私は死ぬまでさわぎつづける。手足がきかなく なったら口だけででも跳ねつづける。いよいよ死ねなくなった。 やりたいこと、やらなければならないことがつぎからつぎに 出てきて、死ぬ余裕がない。若い人たちを戦争に巻き込みたく ない、そのためのさいごの砦でなくちゃと思っている。

渡辺千恵子(長崎被爆 1928–1993) 渡辺千恵子(わたなべ・ちえこ)さんは、16歳の夏、 学徒報国隊として動員され、三菱電機製作所で 働いているとき、原爆にあいました。鉄骨のハリの 下敷きになって下半身の自由を奪われ、自暴自棄に なりそうになったとき、いつも励まし勇気づけて くれたのは、同じ被爆者であったお母さんでした。̶ 1956年、第二回原水爆禁止世界大会での 渡辺千恵子さんの訴えから 原水禁世界大会に参加する千恵子さん、1975年、夏。撮影:福島菊次郎 共同通信提供 「長崎を最後の被爆地に」と、 繁華街で訴える千恵子さん、 1984年。撮影:黒崎晴生 原爆犠牲者はもうわたしたちだけでたくさんです。 世界のみなさま、原水爆を、どうかみんなの力で やめさせてください。そして私たちが、『生きていて よかった』といえる日が、一日もはやく実現でき ますようお願いいたします。

笹森恵子(広島被爆 1932–) 13歳の女学校1年生で、学徒動員として建物疎開の後片付け中に、爆心地から約1.5キロの所で被爆した笹森恵子(ささもり・ しげこ)さんは、顔から上半身にかけて、ひどいやけどを負いました。 カリフォルニア、マリナデルレイの自宅、ノーマン・カズンズ夫妻の絵の前で。撮影:福田恵子 ニューヨーク市の高校で証言する恵子さん。 2015年4月30日。共同通信提供 ニューヨークに到着した恵子さん、同行した谷本清牧師とともに。1955年5月9日。 ゲッティイメージズ(GettyImages)提供 十代の終わりを迎えたころ、恵子さんは教会で 谷本牧師に出会い、被爆した若い女性のグループ の集まりに参加しました。 東京で何度も手術を受け、23歳になったとき、 原爆孤児に寄付金を送る「精神養子」運動を 立ち上げたジャーナリストのノーマン・カズンズ氏 に出会い、他のメンバーとともにアメリカに渡り、 手術を受けました。その後、カズンズ氏の養女と なり、看護師となって病院に勤務しました。 恵子さんは退職後も、被爆体験や平和について 語り続けています。

坪井直(広島被爆 1925–2021) その後、坪井さんは何度も入退院を繰り返しました。病名は慢性再生不良貧血症、狭心症、大腸ガン等放射線後障害。 彼はその病んだ身体を奮い立たせて、人々に核兵器の恐ろしさを語り、核兵器廃絶を訴えつづけました。 坪井直(つぼい・すなお)さんは、爆心地から1.2km付近の路上で、通学途中に被爆しました。 1945年8月6日、午前11時頃、橋のたもとに座りこむ。撮影:松重美人 中国新聞社提供 2010年、NPT再検討会議中に、国連で開催した原爆展にて。 中学校教師として生徒を引率する坪井さん。坪井直氏提供 爆風で、たぶん10mは吹き飛ばされ、熱線により顔、両手、背中、腰、両足など、ほとんど全身に火傷を負いました。 被爆1週間後に意識不明となり、1カ月以上経てから意識を取り戻しました。助けられたとき以来、医師は3カ月ほど 毎日私に“死の宣告”をしたそうです。

ウラン鉱と核廃棄物による被害 核兵器や原子力発電は、エネルギー源となるウランの大量採掘から始まります。ウラン鉱山の採掘の規制がまだなかった ころには、米国、オーストラリア、旧ソ連の鉱山からの核廃棄物は責任をもって処理されませんでした。その後、清掃作業や 地下貯蔵に莫大な金額が費やされるようになってきました。 またアメリカ西部での採掘作業には先住民が従事し、健康への影響が懸念され続けています。 アメリカ・ワシントン州コロンビア川流域のさびれた地域にあるハンフォード核実験場。一時は世界最大のプルトニウム生産施設だったが、 1987年に活動を停止した。撮影:桃井和馬 ウラン鉱山労働者だった夫を肺がんで亡くしたナバホ族の女性。 アリゾナ州レッドロックで。撮影:豊崎博光 ニューメキシコ州のチャーチ・ロック鉱山は、1982年に閉鎖されるまで何百万トンもの ウラン鉱石を産出した。ウラン鉱石を採掘するための爆薬をしかける穴を掘る作業員 。撮影:豊崎博光

実験被害 1996年に包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択されるまで、アメリカ・ロシア・イギリス・イギリスフランス・中国などで 2000回を超える実験が行われました。インド、パキスタン、北朝鮮は、条約に署名せず、複数回実験を重ねました。 1962年以降の実験は、すべて地下実験場で行なわれました。それ以前の大気圏実験による放射線や放射性降下物は、 あらゆる生物に重大な影響をあたえ、環境破壊を引き起こしました。 1998年11/12月発行の原子力科学者会報によると、935回の実験がネバダで行なわれ、内828回は地下で 行なわれました。写真は地下実験で陥没した穴。写真:米エネルギー省提供 写真 上:旧ソ連セミパラチンスク実験場。撮影:森住卓 左:1962年まで行なわれていた大気圏核実験で、太平洋地域の住民は被害を受け続けました。 写真はビキニ環礁の核実験で被曝した少年。撮影:米軍 1950年代、大気圏実験で、風下となった周辺で被曝した 人々は「風下住民」と呼ばれるようになりました。ユタ州 セント・ジョージでは、多くの住民が死の灰にさらされ ました。この女性は、1959年に息子を白血病で、1983年 には夫をがんで失い、残る4人の子どものうち2人も 脳腫瘍に冒されました。撮影:豊崎博光

原発事故―チェルノブイリ 1986年、爆発事故で原子炉建屋の上部や 一部の側面が吹き飛んだチェルノブイリ 原発4号機は、コンクリートや鋼材で 「石棺」を築き、放射性物質の外部への 飛散を防ぎました。 事故から30年が経ったころ、石棺が老朽化 し、アーチ型のシェルターで4号機を覆う 「再石棺」を築きました。 完成した新たな石棺が彫像の後ろに見える。2018年撮影。クリエイティブ・コモンズ提供 不運に見舞われたチェルノブイリ原発4号機建屋施設。2005年撮影。撮影:ペトル・パブリチェク(IAEA) クリエイティブ・コモンズ提供 写真 上:がん病棟の少年、1991年5月1日。 撮影:ウラジミル・シューバ/タス通信 右:事故の後、汚染された故郷の村を離れる住民。 撮影:ウラジミル・シューバ/タス通信

原発事故―福島 2011年3月11日に発生した東日本大震災 により、福島第1原子力発電所の事故は、 スリーマイル島、チェルノブイリ事故を超える 大事故となりました。4基の原発のうち、 3基が水素爆発を起こし、大量の放射性物質 を大気中に放出し、放射能被害を広範囲に もたらしました。 10年過ぎた現在も、35,000人が避難生活を 余儀なくされています。 溶け落ちた核燃料を冷却することにより、 今も1日140トンの汚染水が発生して います。この汚染水は複雑な濾過工程を 経て処理されていますが、放射性物質の トリチウムが水の中に残っています。 敷地内には、この「処理水」を貯める大型 タンクが増え続けています。 水素爆発の後、建屋が粉々になった3号機。2011年11月12日。毎日新聞提供 避難指示区域で行方不明者を捜索する防護服の警察官。2011年4月7日。毎日新聞提供 客を乗せ、帰還困難区域の富岡町の桜並木を徐行して通るバス。2019年4月6日。毎日新聞提供

国連発足 1945年8月6日広島、9日長崎に米軍が人類初の原子爆弾を 投下しました。同年10月24日、国際連合(国連)が発足、 翌年1946年1月10日に開会した第1回国連総会は、1月24日、 第1号決議「原子力委員会の設立を求める決議」を採択し、 米国も賛成しました。核兵器のない世界に進行するかにかに 見えましたが、米国と当時のソビエト連邦をそれぞれ中心とする 軍事同盟が誕生。大量の核兵器を持つことで相手に攻撃を させないという、「核抑止力」論にもとづいて核軍拡を進め、 核保有国が増えました。 日本国憲法は1946年11月に公布され、第9条で、国際紛争を解決する手段として、 戦争を放棄している。9条は、スペイン語に翻訳され、カナリア諸島テルデ市の 広島・長崎広場に展示されています。撮影:伊藤千尋 第1回国連総会1946年1月10日、ロンドン。撮影:マルセル・ボロメイ 国連提供

核兵器の禁止と廃絶を求めて 第二次世界大戦終了から5年後の1950年に、ストックホルム・ アピール、10年後の1955年には、ラッセル・アインシュタイン宣言が 発表されました。アピールは「核兵器の絶対禁止、厳重な国際管理の 確立」、宣言は「核兵器の廃絶と戦争廃止」を訴え、今日までの世界 市民の運動、科学者の平和運動に大きな影響を及ぼしました。 核兵器の禁止と廃絶を求める国際的運動の発端でした。 アルバート・アインシュタイン ラッセル・アインシュタイン宣言を 読み上げるバートランド・ラッセル 1955年7年月9月日。 撮影:カール・サットン ストックホルム・アピールの署名 活動。1951年7月東京・豊洲にて。 連合通信提供

ビキニ水爆実験から原水爆禁止運動へ 原爆投下の9年後の1954年、太平洋上のビキニ環礁で、アメリカが実施した水爆実験により、放射性降下物の「死の灰」が、約160キロ離れた海域で操業していた マグロ漁船第五福竜丸にも降り注ぎました。乗組員の放射線被害が詳しく報道されるなか、無線長の久保山愛吉さんが9月に亡くなりました。この事件により原水爆、 放射能に対する国民の関心は急激に高まり、各地で起こった原水爆禁止を求める署名活動は、瞬く間に全国に広がり、3000万以上の署名が集まりました。 1954年4月、東京・上野で、原水爆禁止を求める署名活動。 日本原水協提供 放射線障害と診断された福竜丸の乗組員たち。1954年4月1日。毎日新聞社提供 廃船になった福竜丸。1970年、東京、夢の島。撮影:森下一徹 1954年3月1日、ビキニ水爆実験「ブラボー」のきのこ雲。爆風から約80kmのところから撮られたもの。撮影:アメリカ空軍

日本被団協結成 署名が大きな力になって、原水爆禁止世界大会へ、そして原爆投下から11年目の1956年、日本被団協の結成となった。 設立時の『世界への挨拶』にはこう述べている: 「. . . 私たちは自らを救うと共に、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓う」。 以来、65年間その実現を求め、一日も休むことなく歩んできました。 日本被団協結成大会、1956年8月10日、長崎にて。連合通信提供

核兵器拡散の阻止 1960年代、核兵器を製造する能力を持つ国が増えたことで、核兵器の拡散が大きな問題となりました。 核兵器不拡散条約(NPT)が国連の会議で交渉され、1968年に署名が始まりました。条約は、1970年に 発効し、法的拘束力を持つようになりました。 1967年以前に核兵器を製造した国(米国、旧ソ連 [現ロシア]、英国、フランス、中国)は核兵器国に 分類され、その他の加盟国は核兵器を製造しないことを約束して原子力の平和利用を享受することが できる、としています。 2020年1月現在、191カ国が条約の順守に合意している状況です。 NPT再検討会議準備委員会第1回会合(1974年4月1日、スイス・ジュネーブ)。写真:国連提供 1995年5月、無期限延長が決まった再検討・ 延長会議。第6条は、核軍拡競争に終止符を 打ち、核兵器を廃絶し、最終的には国際的な 完全な軍縮を達成することを約束している。 国連提供

年 被爆者問題国際シンポジウム 1945年に投下された2発の原爆の影響をまとめた 国際シンポジウムが、1977年、国連NGO主催で 東京、広島、長崎で開かれた。日米ともに決定的な データが公式に発表されていないことを指摘する 反核運動家の要望に応えたものである。 会議では、1945年末までに広島で14万人、長崎で 7万人が原爆により亡くなったとする調査の結果が 発表された。 フィリップ・ジョン・ノエル=ベーカー氏は、 「生か忘却か」と題したシンポジウムの閉会の辞で、 「世界のヒバクシャよ、団結せよ。輝かしい未来の 人民、それは私たちだ。」と述べた。このとき、 「ヒバクシャ」は国際的なことばになった。 ノエル=ベーカー卿 (1959年ノーベル平和賞受賞) 撮影:森下一徹 シンポジウムの開会を宣言する アーサー・ブー議長。被団協提供

国連軍縮特別総会 軍拡競争が続く中、国連総会は1978年、軍縮に関する初の 特別総会を開催した。 世界各国の平和活動家の代表団がニューヨークの街を行進する 異例のイベントだった。その中には、核兵器廃絶を求める日本の 活動家500人も含まれていた。 国連では、1982年と1988年に、さらに2回の軍縮特別総会が 開かれた。 「ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・ウォー」 第2回軍縮特別総会で訴える山口仙二氏 。 第2回軍縮特別総会の会期中に開かれたマンハッタン42番街でのデモ日行進、1982年6年月12日。撮影:尾辻弥寿雄

被爆者、欧州で訴える 1980年代、アメリカとソ連が中距離ミサイルをヨーロッパに配備しようとして核戦争の危機が高まり、ヨーロッパで反対運動が盛り上がりました。 イギリス、ドイツ、フランス、オランダなどで30万人から50万人の集会がたびたび開かれました。集会への参加要請を受けて、たくさんの被爆者が ヨーロッパに向かいました。 82年8月には遊説団が東・西ドイツ(当時)、イタリア、オランダ、フランスを歴訪、そのうち4人の代表がバチカンを訪れ、ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世に謁見し、核兵器廃絶への尽力を要請しました。 1982年8月25日、ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世に核兵器廃絶を要請。日本被団協提供 フランス遊説。肥田舜太郎医師、モンプリエ市技術専門学校で講演、1983年10月。日本被団協提供 ドイツのボンで開かれた50万人の集会で連帯のスピーチをする小西悟さん、 1983年10月20日。日本被団協提供 ヨーロッパ遊説団、ドイツ・ブーヘンワルト強制収容所解放記念塔の前で、1982年8月。日本被団協提供

アメリカ 1,030 アメリカ 5,428 Nevada (USA) Alamogordo (USA) Christmas Island (UK) Moruroa and Fangataufa Atolls French Polynesia (France) ロシア 715 350 165 160 パキスタン インド イギリス 45 45 6 6 フランス 210 (40-50) 7 中国 イスラエル Bikini and Eniwetok Atolls, Marshall Islands (USA) Emu Field (UK) Monte Bello Island (UK) Pokhran (India) Sahara (France) Maralinga (UK) Novaya Zemlya (Former Soviet Union) Semipalatinsk (Former Soviet Union) Chigais (Pakistan) Lop Nor (China) 90 225 290 Number of nuclear warheads possessed by each country Estimated by Stockholm International Peace Research Institute (SIPRI) June 14, 2021. Test sites. Number of nuclear tests conducted (November/December 1998 issue of the Bulletin of the Atomic Scientisits; Subcritical nuclear tests conducted by the US and Russia are not included). ロシア 5,977 北朝鮮 核弾頭数、核実験場、そして核実験数データ 冷戦が終結したにもかかわらず、依然として、世界中に核兵器による脅威が存在しています。これら大量の核兵器の威力を合計すると、 地球上に生きるすべての生物を何回も殺すに十分なのです。 世界の核実験数(原子力科学者会報1998年11/12月号)、核兵器数(2022年SIPRI年鑑から) 背景写真:米国、キャッスル作戦の一環として、1954年3月1日ビキニ環礁で行われた 「ブラボー」核実験。撮影:米軍

世界法廷運動 市民運動として始まった世界法廷運動が国際的な運動に発展し、1993年の国連総会、国際保健機関(WHO)の 決議によって国際司法裁判所(ICJ)に勧告的意見を求める決議案が可決された。日本の世界法廷運動では300万余人の 署名が国際司法裁判所に提出された。 広島、長崎両市長は、核兵器は違法だとの意見陳述を行った。 1996年7月8日ICJは勧告的意見を発表し、国連総会に提出した。意見では「核兵器の使用は一般的にみて武力戦争法、 とりわけ国際人道法の原則とルールに反する」としながらも「国家の存続が危ぶまれるような極端な状況での自衛の ための使用または威嚇が合法的であるか違法かどうかについての結論を下すことはできない」とした。 ICJの法廷。東友会提供 世界法廷運動代表団。1995年10月オランダ・ ハーグの平和宮(ICJが置かれている)の前で。 東友会提供

ハーグ市民会議・ミレニアムフォーラム 1899年に開催された「第1回平和国際会議」100周年 を記念し、ハーグ平和アピール1999・国際市民平和 会議が1999年5月世界の100か国、790の団体と 1万人に及ぶ個人が参加して、オランダのハーグで 開催された。 日本代表は「つたえようヒロシマ・ナガサキ」代表団と して参加し、「原爆と人間展」の展示、証言。「世界の ヒバクシャ」集会、ジャパンデーの中に78名の被爆者 が参加。会議では、「21世の紀平和と正義のための 宣言」が採択された。 1年後、新しい世紀を迎えるに当たり、国連、市民社会、 NGOが協力して取り組む共同課題を議論し、平和、 安全保障、軍縮など5項目の行動課題を含む宣言を 採択した。 ブリュッセルのNATO本部への行進に参加する被爆者代表を見送る。1999年5月ハーグ。日本被団協提供 ハーグ平和アピール国際会議、1999年5月。日本反核法律家協会提供 国連ミレニアムフォーラム、2000年5月22日から26日まで、国連本部まで、にて。日本被団協提供

核兵器の人道的側面に関する 共同声明から国際会議へ 2012年5月NPT準備委員会で、スイスなど16か国が 共同声明を提案した。『いかなる状況下においても、 核兵器が2度と使用されないことが最も重要であり、 そのための唯一の保証は、核兵器の廃絶である』。 以後、その賛成国は回を重ねるごとに増えた。 その間、核兵器の人道上の影響に関する国際会議が 精力的に開催された。2013年3月ノルウェー(オスロ) 参加127か国、2014年2月メキシコ(ナヤリット) 146か国、2014年12月オーストリア(ウィーン) 158か国。どの共同声明、国際会議のまとめも市民 社会の役割が決定的だとした。 バチカン国際会議、2017年11月、バチカンで初めて の軍縮会議が開催され、被爆者も招待された。 フランシスコ教皇は核兵器に関し、「核兵器は使用と 威嚇だけでなく、その所有だけでも強く非難されるべ きである」と述べた。 オスロ会議。ピースボート提供 2014年2月13日、ナヤリットの会議で行なわれた「ヒバクシャセッション」で発言する被爆者代表団。日本被団協提供 バチカンの会議で発言を終えた被爆者の和田征子さん、2017年11月。しんぶん赤旗提供

1 3 4 5 6 7 8 9 2 Nuclear-Weapon-Free Status – Nuclear-Weapon-Free geographical regions Land territory covered by Nuclear-Weapon-Free Treaties Sea territory covered by Nuclear-Weapon-Free Treaties – Nuclear-Weapon-Free Zones 1 5 6 7 9 As of 2010, the above nine nuclear-weapon-free zones are in effect. Some of the treaties related to these zones are at different stages with regard to the signature, ratification and entry into force, as well as with regard to the signature and ratification of their associated protocols containing security assurances from the nuclear-weapon States. The delineation of the Nuclear-Weapon-Free Zones presented on this map is indicative only. Adapted from an original map developed by the United Nations Office for Disarmament Affairs. The treaties establishing the nuclear-weapon-free zones, inter alia, ban nuclear weapons within the respective territories of the zones, including the acquisition, possession, placement, testing and use of such weapons. 世界の非核兵器地帯 トラテロルコ条約 1967年 ラテン・アメリカおよび カリブ地域における核兵器禁止条約 ラロトンガ条約 1985年 南太平洋非核地帯条約 バンコク条約 1995年 東南アジア 非核兵器地帯条約 ペリンダバ条約 1996年 アフリカ 非核兵器地帯条約 中央アジア 非核兵器地帯条約 2006年 モンゴル国非核地帯地位 1992年 南極条約 1959年 海洋だな条約 1971年 宇宙空間条約 1967年

ヒバクシャ国際署名 2016年4月、ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちが訴える「ヒバクシャ国際署名」がはじまりました。2020年までに、 世界中で署名を集めることを目標として、毎年、国連総会などで、提出、2020年12月31日までに累計13,702,345筆の 署名を国連事務総長宛てに提出することができました。 2016年4月27日、東京渋谷駅前の署名行動。日本被団協提供 2019年5月1日、2020年NPT再検討会議にむけた第3回準備委員会で、サイード議長へ9,415,024筆に わたる書名簿を提出。撮影:エリコ•プラット キャンペーンリーダーとして活動する林田光弘さん。日本被団協提供 長崎の街頭署名。日本被団協提供

核兵器禁止条約 2015年5月のNPT再検討会議最終日、米英加が拒否したためNPTの議論最終文書は採択されなかった。 翌年国連で、議論を重ね、2017年には、3月と6、7月に核兵器禁止条約案を議論し、最終日の7月7日、前文と 20条の核兵器禁止条約を122カ国の賛成で採択した。 条約交渉会議議長に、集まった署名を提出する被爆者代表、2017年6月。日本被団協提供 核兵器禁止条約が採択されたことを喜ぶ被爆者の藤森俊希さん(被爆当時1歳)、サーロー節子(13歳)さん。日本被団協提供

高校生の取り組み 高校生平和大使は1998年から毎年国連を 訪問し、核兵器廃絶と平和な世界の実現を訴え てきました。2001年、平和大使募集をきっかけ に集まった高校生たちは、核兵器廃絶をめざす 活動を自分たちの力でと考え、「核兵器の廃絶と 世界の平和の実現を求める高校生1万人署名」 活動署名を立ち上げました。長崎で始まりまし たが、今では国内各地に拠点があり、世界にも 広がっています。 被爆者と対話を繰り返し、被爆者が体験した「原 爆」を絵画として表現する活動は、広島市立基町 高校の生徒たちによって2007年から取り組まれ てきました。高校生は、被爆者の体験を心で受け 止め、体験したような気持ちを味わいながら絵 を完成させます。絵は被爆の実相を伝える資料 となり、被爆者と高校生のつながりは、人から人 への継承の大切な場となっています。 広島平和記念公園で核兵器廃絶を求める署名を集める高校生たち。高校生平和大使派遣委員会提供 2019年までに、延べ112人の生徒が被爆者の証言をもとに137枚の絵を描きました。生徒たちは半年以上にわたり、 作品制作を通じて、被爆者の体験を自らの体験としてとらえていきました。広島市立基町高校提供

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